【心に残る映画】

【おすすめ映画】孤狼の血 平成の終わりに昭和のヤクザ映画がエンタメに気づかせてくれた【ネタバレ感想】

あらすじ

“血湧き肉躍る、男たち渇望の映画“が誕生した。
昭和63年。暴力団対策法成立直前の広島の架空都市・呉原を舞台に、刑事、やくざ、そして女が、それぞれの正義と矜持を胸に、生き残りを賭けて戦う生き様を描いた映画『孤狼の血』。決して地上波では許されない暴力描写とエロス、耳にこびりつく怒号と銃声。観る者は生々しいまでの欲望にあぶられ、心は必ず火傷する。『警察小説×仁義なき戦い』と評される同名原作を映画化した本作は、昨今コンプライアンスを過度に重視する日本の映像業界と現代社会に対する新たなる挑戦であり、数々の【衝撃作】を世に送り出してきた東映が放つ【超衝撃作】である。by officialsite

平成の終わりのいまだからこそ、この映画には特別な価値がある

昭和の最後を舞台とした映画が平成の終わりに撮影公開された背景を少し考えると、この映画はより楽しめると思います。

事前の情報では、昭和のヤクザ映画や暴力活劇の復活など最近の映画にはない色濃さが新鮮に映ったと耳にした記憶がありました。

平成の時代とはなんだったのか。最中にいる現在には分かりかねる時代性がいま昭和の躍動を覗くことによって、輪郭が感じられるのかもしれません。

個人的にはその声があったせいか、

「平成がカウントダウンされているこの時期に昭和の時代を見てみよう」

と思い立ち観賞しました。

しかし、はじめに鑑賞中や観賞後の感覚を述べると、
先述の輪郭を感じたいと書きましたが、そんな堅苦しいものではなく、至って単純な動機だったのかもしれないことを打ち明けます。

多くの方もこんな感覚があるのかなとは思いますが、平成のルーツでもある昭和の息吹を感じることで、よく覚えるあの「懐かしさ」に会いに行きたかったのだなという気持ちです。

その時代を生きたこともないのに勝手に懐かしさが胸をくすぐってくる感覚。
これがただただ感じたかった。

昭和と平成で切り分けるのは野暮かもしれませんが、これぞ昭和、懐かしいなどと思ってしまう要素がこの映画にはたくさん詰まっていました。

列挙すると、暴力、面子、性、金など、人間の根源的な欲望や気高い誇りなどが血みどろに塗りたくられている。

そんな臭い立つ濃度の高い色でスクリーンごと塗りたくられている。そんな印象でした。

暴力が過ぎる、血が過ぎる、薄目になるようなシーンもありますが、薄目になればなるほどドキドキしている自分がいたことがこの映画に引き込まれていた証拠です。

少しネタバレしますが、冒頭のシーン、ヤクザがヤミ金業者をしめるシーンがあるのですが、養豚場の豚の檻のなか、ボコボコにしばき、豚の糞を喰らわせ、枝切り鋏で小指をぶち切る圧倒的な暴力で一気に引き込まれました。

これだけやりたい放題やって、脈拍をあげにあげてくれ、どう終わるのかと思った終盤には敵対的な人物や組織への勝利や、正義と悪の反転、その他伏線も回収され、映画らしく終わってくれたことで、これは映画であり、これこそがエンターテイメントであることを気づかせてくれました。

エンターテイメントであることを気づかせてくれることはつまり、名残惜しくもこの世界から離れなければいけない合図でもあります。

それは寂しくも映画の方から手を振って幕を閉じてくれることで、また現実の世界へ戻してくれる映画の優しさです。

物語の世界へ引き込み、現実の世界へ戻してくれる。

物語以前の自分と少し違うような心持ちで、物語が少し背中を押してくれる確かな心強さを感じながら。

この感覚が強くあればあるほどエンターテイメントとしての魅力も強いのかなと個人的には思いますが、この映画にもそれを強く感じました。

昭和の「懐かしさ」の世界へ引き込み、根源的な欲望を沸き立たせ、最後には物語でありフィクションであることを鮮やかな種明かしで締めくくる。

平成が終わるカウントダウンのこの時期に昭和を見せてくれたタイミングは、映画やエンターテイメントの持つ力、原点を再認識させてくれる上で必要な舞台装置だったのかなと勝手に合点してしまいました。

ただ、エンターテイメントとして成し得るには、現在の映画技術の進歩も欠かせない要素であり、昭和を懐かしむだけの懐古主義でなく、現在の技術でもって、終始観賞に耐えうる要素があってこその映画でした。

具体的には、人が仏様になった姿がリアルに映されるシーンは昭和では表現できない技術があってこそです。「役所広司ズブズブじゃん・・・」「石橋蓮司の最後の顔マジか・・・」誰かに話すとしたら映画の筋や出来不出来なんかよりもこんな言葉から切り出したくなるほど目を見張るものがありました。

役所広司と松坂桃李。二人が演じる正悪の表現の対比が印象的。

ヤクザ映画は、役者それぞれが沸点のあたりにいる人間を表現しているので、
人間臭さがより際立つのかなと思いますが、主役の大上を演じる役所広司氏はひときわ際立っていました。

ヤクザも警察も行き着くところは正義でも悪でもない。

その矛盾に満ちた存在を象徴し、間を行き来するような役柄の大上は暴力、性、金にまみれた人物として、松坂桃李演じる新人キャリアの日岡の純白さと時に反発し合います。

そりゃ誰でも反発するよというほどの大上の行為は、観客に正悪の混濁を提示し続けます。この人の存在は正義なのか悪なのか。逡巡が脈拍と掛合わさりいよいよ理解することを諦めるほどの存在を見事に表現する役所広司氏には、ふと、この人と同時代にいられて良かったといった素朴な感動が絶えませんでした。

そんな大上がこれまでしてきた事実の全てが、ヤクザと警察の存在の外にいる「カタギ」のために向かっていたことが、最後に明かされます。

これまでの大上の行為に対しての日岡の反発は消え、日岡自身が大上の弔いを持って、ヤクザも警察も正義も悪も越えていく、日岡の成長や強さが描かれる流れは、ヤクザ映画と警察小説、さらに青年の成長譚の要素も折り重なります。

ネタバレになってきましたが、続けますと、純白だった日岡が覚醒したかのようなシーンがあります。

大上がリンチされた現場に赴いた日岡。その犯行を犯した青年を殴り続けます。

純白さを表現した日岡の白いワイシャツが返り血に染まっていきながらも殴り続けるシーンの松坂桃李氏の目が、これまで映されてきたヤクザ達の暴力的な怖さとは違った別の怖さを感じました。

それは沸点を越えてしまった、いわゆるイッてしまった怖さです。

炎の熱は赤よりも青にあるように、冷淡で狂気的な松坂桃李氏の目が、映画のなかで異端な怖さを見せてくれました。

物語のなかでは、大上が昭和を生きた最後の存在であり、日岡が終わる昭和から平成の時代を生き抜こうとする存在として一見対立された構造が描かれていますが、わずかな時間ではあるけれども色濃く生きた二人の時間の終わりを境に、対立から次世代に引き継がれていく継承への着地で幕を閉じます。

いち観客ながら鑑賞後には、大上ならびに役所広司氏の存在感には「平成にとんでもないものを残してくれたな」というような日岡ならびに松坂桃李氏の気持ちを察してしまうほどのインパクトが置き土産に残ります。

しかし、松坂桃李氏のあの狂気な目を目撃した、いち観客にはそれと同時にこれからの時代、平成が終わり新しい時代の役者として大いに期待させてくれる存在にも映りました。

この作品の次はこれがおすすめ

平成の時代に発表されたヤクザ映画で言えば、やはりアウトレイジです。

見比べて楽しむことをおすすめします。

【おすすめ映画】 サイタマノラッパー 大概の人のリアルな負け方。それは大切なことを教えてくれる。

 

あらすじ 冴えないラッパーの冴えない日常

埼玉のラップグループ「ショウグン」のイックとトムとマイティは初ライブに向けて活動中、メンバーのひとりからライブが決まったと報告を受けたのは役所主催の「若者の声を聞こう」という会だった。。

当日集まったのはこの3人だけのなか、冷めた目で見る役所の方々に向けて渾身のライムを披露。

仕事もロクにしていない彼らの中途半端な活動に、現実の厳しさをこれでもか突きつける社会。

それでもラップへの気持ちを胸にラップを続けていく。

【予告編はこちら】

【 アマゾンビデオはこちら】

感想 負けっぷりが共感できるリアリティ

イックは太めのラッパー。

高校時代の同級生に偶然出会い、お前がラッパー?ウケるなんて言われるような冴えない高校時代を過ごした彼のラッパー姿は画面上からもカッコよくは見えない。

昼過ぎまで寝て、何をするでもなく、ラップを口ずさみながら街に出る。

何をするでもなく、コンビニの駐車場でおでんを食べている。

すると電話が鳴り、おでんを置いて話し込む。そこにガラの悪いグループの車が駐車場に、おでんを踏みつけてしまう。

イックは悪絡みされて、ボコボコにされる。

そんな一連をイックは武勇伝のようにトムに話す。

トムは歩道橋から下を走るトラックにエアガンを打って楽しむような奴。

少し痛い彼らもラップが大好きでいつか自分のグループでデビューする日を夢見る。

けれど、他のメンバーは彼らがグループにいることはネタだと言い置いて、東京に上京してしまう。

後輩のマイティは彼らを慕うも、他のメンバーの方が可能性があると、一緒に上京する。

残された2人、イックは居酒屋でバイトを始める。

トムはガードマンの仕事を始める。

残された2人はもうラップは諦めたのか。

偶然イックのバイト先の居酒屋で、トムが会社の人達と来店する。まだ諦めてねぇぞ、とイックは突然フリースタイルをイックにぶつける。

 

あらすじをほぼ書いてしまいましたが、どうしようもない冴えなさっぷりと痛さが共感出来てなかなか直視できませんでした。

負けに負ける彼らの姿が、自分にも同じように負けた経験と重なるからです。

ただ最後に見せられたフリースタイルラップは、それまでの負けっぷりの全てがラップに込められて直視せざるえないシーンでした。

物語の始めこそファッションのように軽く薄かった彼らのラップ。

ラストに掛け合うフリースタイルラップには、彼らのパッションが聴こえ胸に刺さってきます。

彼らの負けはラップとして表現され、負けていれば負けているほど、これまでの様々なシーンを思い浮かべ、さらに刺さってきます。

これまでの負けっぷりは全てこの最後のシーンのフリでもあったのかのように思え、作品や表現は背景を知っていれば知っているほど深く刺さるものだなと思いました。

人生のうち負けることは多くあり、いかに負けるか。負けた後にどう起き上がるか。それを痛々しくも教えてくれる作品でした。

どんな人におすすめか

冴えない人
痛い人
負けっぷりに自信がある人
そんな人達を寒い痛いと一言で片付けてしまう人

次はこの作品はどうでしょう

【キッズ・リターン】
北野武監督作品

若者2人のそれぞれの挑戦。不甲斐なく情けなくどうしようもない負けっぷり。それでも「まだ始まってねぇ」とうそぶく背中がなぜか勇気を湧かせてくれます。

【MROHA】
ラップとギターの二人組。ポエトリー・リーディングとヒップホップの語り口がアルペジオのギターと重なるシンプルだけでも言葉が刺さる表現。歌詞はおそらく自身の胸の内。自身の不甲斐なさと周りへの感謝が溢れる音楽。

【おすすめ映画】 ジブリ 夢と狂気の王国  ジブリという才能の怖さが覗ける映画

https://youtu.be/VikVW3NCQyU

あらすじ 風立ちぬの制作期間のジブリを密着

映画「風立ちぬ」の制作期間から完成までのジブリの内側を撮影したドキュメンタリー。宮崎駿やプロデューサー鈴木敏夫などを中心にジブリとは何か、ものづくりとは?それを維持させるビジネスとは何かが垣間見ることができます。

感想 ジブリは夢のような場所であり狂気めいた場所でもある

タイトルでもある通り、ジブリは夢を具現化し作品にする夢のような場所であり、少し言い方に語弊もありますが、その夢に駆られてしまった人々の狂気めいた場所である。というのが鑑賞後の感想でした。

ジブリでは、宮崎駿氏の圧倒的な才能とその才能を具現化してくれるアニメーターという光景が日常です。

しかし、その才能自体は非日常的な存在でもあり、それを日常にしていく過程は感動もあれば辛苦も色々あります。

例えば、

宮崎駿氏は脚本を書かず、絵コンテを作ります。それも製作中にまだ結末は描けておらず、絵コンテを描き続けるのと同時に作品は作られていきます。

結末も一度では決まらず、最後の最後にあの結末に変更されたことが伺え、それは氏の内側にある葛藤や迷いからの決断があったことが見られます。

また絵コンテを全て描き終わると、アニメーターの方々が一気に形にしていく様子を宮崎駿氏が見て「みんな終わらせに言ってるな」と頼もしさと寂しさがないまぜになった言葉を発したことからも非日常が日常になっていくことへの寂しさというか、夢を作っているのに夢が終わっていくような言葉として聞こえました。

もうひとつ。

ものづくりはその作品が売れなければ次の作品を作ることが出来ません。

ビジネスとしての利益は最低条件でもあり、命題です。いかに売るか。

宮崎駿の才能が結晶化されたものを多くの人に届けるという側面をプロデューサーである鈴木敏夫氏が中心に担います。

作品の制作納期の調整やグッズの販売状況、新作グッズの開発。売るという行為により数字を作ることが求められるシーンは組織を続けることの緊張感が伝わってきます。

夢であり続けるジブリ

ジブリと言えば宮崎駿と誰もが声にすると思いますが、ジブリの成り立ちにおいて欠かせない存在はあと2人、プロデューサーの鈴木敏夫氏と高畑勲氏です。

この2人の存在があってこそのいまの宮崎駿でありジブリが出来上がっていきました。

そしてもうひとつ欠かせない存在は、彼らの夢を作品化していくアニメーターの方々です。

映画ではアニメーターの方々が映る時間は少ないかもしれませんが、スタジオの奥に座る宮崎駿氏の席に行くまでに多くのアニメーターが黙々と作品を作っており、彼らの存在なくして作品が形になることはないのだということがひしひしと伝わってきます。

作成時の打ち合わせや、完成後の祝福など、みんなで作品を囲むシーンに多くの方の力で一つの作品が出来ているのだと実感できます。

夢はつまり狂気でもある

夢を具現化することはそれ相応の労力が必要ですし力量が常に試されます。

それは傍目から見れば狂気すら感じさせる光景であり、そんな狂気のさなかにいる人々の辛苦はジブリにももちろんあります。

全クリエイターが抱える矛盾

「風立ちぬ」の題材は、飛行機設計を仕事にする男の空への憧れと戦争の時代に飛行機を作ることの「矛盾」が描かれています。

自分の大好きなものが人を殺める存在でもある。

ただ良いものを作りたい気持ちと、それを作ることは誰かを傷つけることが共存しているその「矛盾性」に作り手は苦しめられます。

宮崎駿氏はこの「矛盾」は、その時代の主人公だけが抱える「矛盾」ではなく、全クリエイターが抱える「矛盾」だとも劇中に語っています。

自身も飛行機が好きで、いくつも作品として描いてきたアニメ自身にも誰かを傷つける可能性を含んでいる矛盾があると。

ブラックなユーモアを効かせる彼の言葉を借りるなら

「アニメーターは呪われている」

と夢を描いた瞬間に狂気の呪縛から解かれることはないと語りながらも作品を作り1日の終わりを迎えます。東京は武蔵野に広がる夕焼けを見ながら、そんな一日を終えていく彼の後ろ姿に、偉大な作り手としての憧れと同時に才能という狂気を抱えた寂しさが映っていた気がしました。

宮崎駿の世界を作る人々

宮崎駿の夢は多くの方を引き寄せますが、同時に去っていく人もいます。

「求められるレベルの高さに身も心も疲弊してい夢の場所から去ることを選ぶ人もいる」

とアニメーターのスタッフさんが話しているシーンはジブリにも日常はあるのだと感じさせます。

息子 宮崎吾朗について

宮崎駿氏には同じように監督として「ゲド戦記や」「コクリコ坂」を作った息子の宮崎吾朗氏がいます。

彼の制作の様子も撮影されており、ある打ち合わせのシーンに制作が難航している様子が伺えます。

吾朗氏の語り口はある意味ジブリの狂気の一端を思わせる部分として個人的には見ていました。

その様子は、少し目も潤んでおり、心内にある想いを言葉にしているようでもありますが、「個人」として言葉にできない葛藤を精一杯なんとか「仕事人」として語っているように見え、これ以上誰かがひとつ不用意な発言をしたら全てが崩れそうな緊張感すらありました。

そんな張り詰めた空気のなか、最後に担当プロデューサーと吾朗氏の話し合いを見かねた鈴木敏夫氏が

「悪いのは全部おれだ」

と責任を全て請け負う言葉には、

その場をしのぐでも本心を取り繕うでもなく、過去から現在までのジブリの狂気に対する言葉とも取れました。

恐ろしいほどの才能をビジネスにして経済活動をまわすことの異常さを鈴木敏夫氏は自覚しつつ、それでもまた明日という日常を迎える。これはこれで狂気だよなと感じました。

 

監督 砂田麻美について

これを映画にした監督の砂田麻美氏しいてはそれを許可したジブリも含め、モノづくりに対する真摯な姿勢やある種の畏敬のようなものがあってこそ、ここまで映すことができたのかなと思いました。

砂田麻美氏は過去の作品に「エンディングノート」という実父の最期の時間を切り取った映画があります。

人間が真剣に生きている姿は映画そのものだなと思わせる力量と被写体のありのままを映す視線が当作品同様、監督の特徴です。

次の映画・作品など

【砂田麻美監督作品】
「エンディングノート」 実父の最期の時間を切り取った映画

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「ゼンマイシキ夫婦」 あなたは何のために誰のゼンマイをまわすのか?

FOXムービー プレミアム 短編映画祭 2014 優秀賞作品「ゼンマイシキ夫婦」

FOXムービー プレミアム 短編映画祭 2014
優秀賞作品「ゼンマイシキ夫婦」
監督:森ガキ侑大
平凡な毎日をすごす夫婦の愛は少しずつ冷めていた。二人の背中には、決して自分では回す事ができないゼンマイがついている。自分のゼンマイは相手にまわしてもらうしかない。何の為に、相手のゼンマイをまわすのか?
夫婦や愛のあり方に触れる、新しいファンタジー。by You Tube

ゼンマイが愛を可視化させる

夫婦の背中にはゼンマイがついている。

ひとりではまわせない互いのゼンマイを、時折まわしあうことで生活は続いていける。

ゼンマイはつまり命であり存在そのものであり、ゼンマイをまわすことは互いの存在への愛を示し、そして時にその愛が試される行為といえる。

試されるとは、ゼンマイをまわす行為という日常に埋もれそうな愛を試されるということ。

つまり愛がなくなると、ゼンマイはまわされない。

ゼンマイがまわされないことがどういうことか分かってはいるけれど、まわせない。

目に見えない愛が、ゼンマイという存在によって可視化される。

ゼンマイがいつ止まるのかわからないけれど、もうすぐ止まることはわかっている。

なぜならもう少しまわすことができたことを誰よりも自分がわかっているから。

その時、止まりそうなゼンマイは、存在の限りなさも同時に可視化させる。

もうすぐ止まる。もうすぐやってきてしまう未来を思うことで、埋もれそうな愛の在り処に気づく。

鑑賞後、

「オマエはゼンマイをまわしてるか?」

自問自答をしていた。

 

彼女が彼から教わる大切なこと マイインターンを観て

素直であること、可愛がられる人であること

妻が観たいというから観ることになった。

妻も知人に勧められて観ることにしたのだとか。

余談だが、妻は人に勧められた物事を取り入れることが自分より多い。

自分と彼女を比べると、おそらく

勧められる機会が多いことと、

素直に受け入れることができる性格の違いが理由だと思う。

そもそも勧められることが多いということが、

すでに素直さによるものが大きいのではとも考える。

勧めたくなる、伝えたくなるのは、

相手が受け入れてくれる雰囲気がなければなかなか難しい。

その雰囲気が彼女には自分より多くある。

勧められることは、大きくは可愛がられることのひとつでもないか。

可愛がられるひとを羨ましく思いつつ、少しは可愛がられる人になっていければとも思う。

さて、レンタル店にて棚を覗くと、すべて貸出中だった。

改めて、別の日に再訪すると1本だけあった。

自分は、この映画が観たいというよりか、彼女が喜ぶ顔が見たいのだ。

迷わず借りることにして自宅鑑賞。

わたしを救ってくれたのは、40歳年上の“新人(インターン)”
『プラダを着た悪魔』で、恋に仕事に奮闘しながらファッション業界でキャリアアップし­ていく主人公を演じ、世界中の女性から共感を集めたアン・ハサウェイ。あれから9年、­最新作でアンが演じるのは、ファッションサイトのCEO。『プラダ~』の主人公のその­後かのような、全てを手に入れた彼女の新たな出会いと試練を描く話題作が、ついに日本­にやって来る。
舞台はニューヨーク。華やかなファッション業界に身を置き、プライベートも充実してい­るジュールス。そんな彼女の部下に会社の福祉事業として、シニア・インターンのベンが­雇われる。最初は40歳も年上のベンに何かとイラつくジュールスだが、やがて彼の心の­こもった仕事ぶりと的確な助言を頼りにするようになる。そんな時、ジュールスは仕事と­プライベートの両方で思わぬ危機を迎え、大きな選択を迫られる──。

起業から急成長を続ける多忙な女性CEOの部下に、

齢70の男性がシニアインターンとして配属される。

性別、文化、世代の違いから、はじめは疎ましく思う女性は、

誰にでも好かれ仕事でも成果を出す男性に次第に心を開いていく。

仕事とは、会社とは、家族とは、

人生の多くを占めるそれらに、人は時間と愛情をいかに注げばいいのか。

上司と部下から、友人へと変化する二人の関係とともに、

「大切なことは何か」を教えてくれる映画。

高齢者が持つ付加価値

Eコマース会社が急成長を遂げたり、

女性のCEOが活躍したり、

現在のアメリカのビジネスシーンが伺えるのと同時に、

雇用環境のいち側面が映されているのではないか。

映画の主軸であるシニアインターンは、

先進国における雇用問題を解決する施策のひとつだと思う。

日本でも、ハンバーガー店が高齢者を採用するなど、

高齢者の雇用環境が変化してきている。

高齢者の採用は、企業の社会的責任としての活動だけでなく、

業務上の経験値や、年齢を重ねることでしか出せない柔和な印象など

スキルや人柄などによる、高齢者にしか出せない付加価値がある。

この付加価値がストーリーの価値にもつながっている。

正しいことを心がける

インターンの男性は会社に馴染み、成果を上げていくなか、

WEBの事業会社において自身もWEBに慣れていくため、

Facebookの登録を試み、偶然その手ほどきをする女性CEO。

プロフィールに記載する質問。

座右の銘は?

“You’re never wrong for doing the right thing.”

“正しい行いは迷わずやれ”(字幕)

“正しいことを心がける”(日本語)

男性の紳士的な態度が集約される言葉だ。

意訳のニュアンスで少し印象も変わるが、ここでは日本語版の

“正しいことを心がける”

として受け取る。

彼と行動をともにし始めた女性CEOはちょうど同じ時期、

株主から別の人をCEOにすることを提案されており、

会社を築いた自身の存在価値と

家族との時間を作ることができない母としての存在価値に

新しいCEOを据える決断に思い悩む。

先に挙げた部下の老紳士の好きな言葉である

“正しいことを心がける”

“You’re never wrong for doing the right thing.”

この言葉は、そばにいる彼女にも影響を与える指針になっていく。

つまり、彼の生き方がまわりの人々の生き方すら変えていくのだ。

その様子は、

性別、文化、世代の違いを超える、

人間の生き様というのか、本質的な問題に対するヒントを示してくれる。

正しいことを心がけるにはまず、何が正しいのかを考える必要がある。

正しさとは何か?

この問いが

大人になることであらゆる物事が複雑に絡まっていく人生において、

自分にとって大切なことは何かを整理させていく。

それは決して万人が思う正しさではないかもしれない。

しかし、本人の心の内から思える正しさとして、突き動かしてくれる。

老紳士のインターンを部下にする女性CEO。

ビジネスとしての上下関係こそあれど、

人間的、本質的な関係においては、

彼女が彼のインターンだったのかなと

鑑賞後のすがすがしさに思った。

そして自分は妻の人間性に惹かれながら、

きょうもインターンのように、自分たちの人生において大切なことを教わっている。

「きみはいい子」 この世界で生きていくための大切な宿題

「きみはいい子」

子供に手をあげてしまう親

5時まで家に帰ってくるなと言われた子

自分が万引きしたことに気づかない老女

知的障がい者を育てる母

生徒や保護者にどう接するればいいか、答えが分からない小学校教師

桜が一本、頼りなく植わっている桜ヶ丘小学校を中心に、

子供や大人に隔てなく、

家族への憎しみや他人への愛情を通して、

ひとと関わることの怖さや尊さを物語る。

 

 

幼児虐待や学級崩壊といった問題を通して愛について描いた中脇初枝の小説を基に、『そ­このみにて光輝く』などの呉美保監督が映画化したヒューマンドラマ。学級崩壊をさせて­しまう新米教師、親からの虐待を受け自身も子供を虐待する母親、家族を失い一人で暮ら­す老人といった老若男女が、現実と葛藤しながらも生きていく姿を映す。出演は、『軽蔑­』などの高良健吾や『そして父になる』などの尾野真千子をはじめ、池脇千鶴、高橋和也­ら。奥深いストーリーと共に、実力ある俳優たちの演技合戦が楽しめる。
(C) 2015「きみはいい子」製作委員会
作品情報:http://www.cinematoday.jp/movie/T0019303
公式サイト:http://iiko-movie.com
配給:アークエンタテインメント

懐かしく、怖い。

懐かしいという言葉が温かい言葉に感じていた自分には、

この映画によって、痛く冷えた言葉であることも思い出した。

ここにいる人々は、

映画の中の登場人物といったフィルターを通り越して、

その懐かしさでもって僕らの胸を刺してくる。

直接でも間接的でも、

この人たちがいた状況や心象に似た気持ちを抱いたことがない人はいないのではないか?

少なくとも自分には、痛々しい懐かしさ、寒々しい懐かしさを覚えながら見ていた。

例えば

理不尽に怒られること

親の顔色を伺うこと

謝ることでその場をやり過ごすこと

身体的特徴や生理現象でクラスでのポジションが変わること

声の大きい人が優位に反対は劣位になること

これらに言えることは

他人によって否応なしに自分と周囲の関係を決定づけられる瞬間がある

ということだと思う。

それは時に怖く、辛く、痛いものだ。

恐怖映画が死を思わせる描写によって怖さを描くとしたら、

この映画は生きることそのものの辛さを描いた怖さというのか。

生きること、他者と共生していくことの怖さが描かれている。

途中、何度も目を背けたくなったのは、

普段はその怖さから目を背けていることの表れだ。

過去に子どもだったとして、

未来に親になるとして老人になるとして、

多かれ少なかれ、この怖さが訪れていた、または訪れる可能性があることを思う。

その可能性は同時に、

被害者でなく加害者として、

怖さを受ける側でなく与える側になってしまう可能性も含み、さらに思い戸惑う。

 

「他者」と関わることの怖さを

当人だけで乗り越えることが出来ないこともあるとき、どうすれば乗り越えることができるのか?

ひとつの答えとして示してくれるのは、

これもまた他者による力が大きいということ。

他者によって受けた疲れ痛み辛さを癒すのもまた他者であるということ。

象徴的なワンシーンがある。

教師がクラスをまとめることに疲れ帰宅すると、甥っ子が、頑張れ、とギュッと抱きしめるシーン。

教師はこの時の、

抱きしめられることで感じた不思議な気持ちを感じてほしくて、

クラスの生徒たちにある宿題を出す。

 

それは、家族に抱きしめてもらうこと。

 

できない、恥ずかしいと言っていた生徒たち。

翌日のクラスには、

宿題をしてきた生徒たちの幸せな表情と抱きしめられた不思議な気持ちで満ちていた。

不思議な気持ちについてみんなで言葉にしていくクラスには、

一瞬ではあるけれども、空気がひとつにまとまっていた。

抱きしめられること

優しくされること

愛されること

それは子供はもちろん、大人でさえも同じように

人の心を癒す力がある。

みな誰かに優しく愛されたい。

その気持ちを同じように自分以外の人に与えてあげてほしい。

教師は、問題も正解もない人が生きていくうえで最も大切な宿題を生徒に残したと思う。

 

子供に手をあげてしまう親

5時まで家に帰ってくるなと言われた子

自分が万引きしたことに気づかない老女

知的障がい者を育てる母

生徒や保護者にどう接するればいいか、答えが分からない小学校教師

誰かが誰かを傷つけても

誰かが誰かを癒やす世界が、きょうもそして明日もやってくる。

 

 

 

映画 「あん」 ひとはただ、この世界を見るために聞くために生まれてきたとしたら

映画 「あん」を観賞

本題ではないが、

まず、なぜ観たいと思ったのか?

映画や本の世界に入る前に、少し考えてみることはないだろうか?

自分の興味や関心の理由を探ることは、自分の思考というか志向に気付ける。それは面白いことだと思う。

例えば、本屋に立ち寄って、本棚を前に気になる本を探す。その本に手が伸びる理由を考えると、いまの自分の心境や欲しがっている感覚のようなものに気付ける。

本よりも自分自身が読める。

本屋にはそんな体験がある。映画館にもCDショップにも同じ体験があるのではないか?それが面白いと思う。
ということで、本題の映画「あん」へもどろう。

はじめにまず予告編を観たときに感じたことを思い出すと、

テーマである、どら焼きの「あん」を作っているシーン

「らい」患者である主人公の徳江さんが、桜かなにかの木々にうっとりしながら見上げているシーン

主題歌である秦基博の歌声に、魅かれた。

丹念に何かを作ること

自分の知らない社会的弱者がここに描かれていること

けれど、社会的弱者が必ずしも心まで貧しいわけではないこと。

それらが観たかったのだと思う。

『殯(もがり)の森』などの河瀬直美が樹木希林を主演に迎え、元ハンセン病患者の老女­が尊厳を失わず生きようとする姿を丁寧に紡ぐ人間ドラマ。樹木が演じるおいしい粒あん­を作る謎多き女性と、どら焼き店の店主や店を訪れる女子中学生の人間模様が描かれる。­原作は、詩人や作家、ミュージシャンとして活動するドリアン助川。映像作品で常に観客­を魅了する樹木の円熟した演技に期待が高まる。
(C) 2015 映画『あん』製作委員会 / COMME DES CINEMAS / TWENTY TWENTY VISION / ZDF-ARTE
作品情報:http://www.cinematoday.jp/movie/T0019740
公式サイト:http://an-movie.com/
配給:エレファントハウス

予告やあらすじを踏まえ、これは観ておくべきだと思ったのだけれど、

実際に映画館で見るまで、しばらく時間が経ってしまった。

大き目の映画館での上映が終わるなか、やっぱり映画館で上映しているうちに観たいと思ったのは、

映画の原作、小説「あん」の著者であるドリアン助川氏のインタビューを拝見したからだ。

「映画「あん」で問いかけた「生きる意味」とは 原作・ドリアン助川さんに聞く」

 

バンド解散後、ニューヨークに渡って別のバンドをやってたけど、2002年9月に日本に帰って来た。仕事はない。本を年4冊出しても、初版で終わっちゃうと年収200万円にもならないんだよね。子供の学費を払えるかどうか、ぎりぎりの生活でした。多摩川の土手にあるアパートで家族3人暮らしていて、あるとき気づいた。回りは高級住宅街だけど、俺には何もない。もう「所有する人生」なんて今後ないだろうという自由さ。「あっ、この多摩川は俺のものだ」。なんだ、世界ってもともと与えられてるじゃん。

地球外生命は見つかっていない、俺たちは宇宙でかなり孤立した存在らしい。ではなぜ生命が存在するのか。宇宙は認識する主体がいなければ消滅してしまうからという「人間理論」です。多摩川の土手を自転車で行ったり来たりしているとき、実感としてそれがわかった。

 

助川氏本人の体験から得た体感には、この著書の主人公である徳江さんの言葉に通じるものがある

「この世界を見るため、聞くために生まれてきた」

それは、徳江さんをアルバイトとして受け入れた店主の千太郎を救う言葉であり、生き方、在り方なのだろう。

弱者というのは、徳江さんのように「罹患者」として隔離されることはもちろんだが、

千太郎のように、罪を犯し、他者に大きな借りがあることで、自らの人生を他人に委ねなければならない生き方も、弱者といってもいいのではないか?

弱者とはつまり、他人や社会によって、自らの自由な生き方を必要以上に阻害されること。

この世界との断絶すら感じるその閉塞感に加え、徳江さんに対する社会的差別を目の当たりにした当事者として、弱者であるアルバイトスタッフを守ることができない店主として、千太郎は苦しむ。

申し訳なさを抱えながら、あるきっかけで徳江さんの住む場所を千太郎は訪れ、「らい」病患者が隔離されていたその場所に、苦しみを抱えながら生きてきた人々と時間があること知る。

その人生に何を見ていたのか?聞いていたのか?そして何を考え、何を望んでいたのか?

その苦しみを自分の苦しみに重ねながらも、徳江さんのいう

「私たちは、この世界を見るために、聞くために生まれてきた」の言葉に救われる。

この世界を見るために、聞くために。

それはただ、この瞬間の世界を慈しむように生きる。ちょうど桜の木々を見上げる徳江さんの姿そのものだ。

それだけでいい、何かになろうとしなくても、何にもなれなくても、ここにただ在るだけでいいのだ。

そう思えることは人間を、弱者や社会、世間という言葉や価値観を越えるひとつの「強さ」を見出してくれる。

強くあろうとしなくてもいい。ただただ感じて生きる。

それは千太郎だけでなく、この世界に生きる人々を救いうる言葉だと思う。

 

 

参考図書