芥川龍之介の厳選12の名言から学ぶ【人生と仕事の哲学】

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芥川龍之介の仕事と人生の名言 -
芥川節炸裂の皮肉に満ちた幸福論

芥川龍之介は日本を代表する文豪。年に2回ある芥川賞の芥川は彼の日本文学への功績からつけられた。教科書にものるような物語や自意識の行き着く先にある支離滅裂な世界観ある物語まで、芥川独特の皮肉の効いた文体でいまも読者を楽しませ続けている。彼の幸福論ともいえる哲学的な言葉は魅力的であり、人生や仕事に勇気を与えてくれます。芥川龍之介の言葉から厳選した名言集を紹介します。

芥川龍之介_幸福論
by unsplash

どうせ生きているからには、苦しいのはあたり前だと思え。

芥川龍之介の文章を読んだ人は感じるかもしれないが、皮肉の効いた文章を書く。時に悲観的な言葉や視点の中に人間というものはこうも馬鹿馬鹿しいよなぁと自虐的に笑いの要素が盛り込まれている。彼の文章を読んだ後にこの言葉を読むと、人生はどうせ苦しいもんなんだよなと納得してしまうと同時に、まぁボチボチ生きていきますか。といったささやかな開き直りをもって人生に向き合える。強く背中を押す言葉ではないけれども、自然と一歩が踏み出されそうな名言。

阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じている。

小さな子供がよく言う「馬鹿と言ってる方が馬鹿なんだよ」という言葉に重なる。自分以外の誰かを阿呆と判断し相対的に自分を少しだけ優位にしてみせる行為は知的ではない。ソクラテスが「自分は何も知らない。けれど、何も知らないということを知っている。」といった無知の知の延長上に知識や知恵があるのこもしれない。周囲を阿呆と見るのなら、自分自身を阿呆として捉えてから、新たな知が獲得できる気がしてくる芥川流の名言。

幸福とは幸福を問題にしない時をいう。

幸福を思ってる時は幸福ではない。 そのことについて考えていると言う事はそのことが足りないということで、だからこそそのことについて考える。本当に幸せなら幸せについて考える何か別のことをしているような夢中しているような感覚であろう。幸福について考えている時、まず1つだけわかる事はあなたはいま幸福ではないということがこの言葉から読み取る。この言葉をまた芥川龍之介ならではの皮肉の効いた名言だ。

道徳は常に古着である。

道徳とは人間としてのモラルや社会的規範、または文化よってその尺度は変わるもの。法律のように明文化されているわけではなく、社会通念としてその国や地域で社会生活を営むひとの頭の中にある概念ともいえる。つまり、これまで人々の中で互いに記憶を更新されてきたもの。道徳は社会生活を円滑に営むうえでとても役に立つものであるけれども、過去の前例から成り立つものなので、これからの社会通念を形成するものではない。それを芥川は古着だと皮肉った。新しいファッションは新しい人々が作るようにこれからの概念も新しい人々が作る。道徳はそれまでの暫定的な概念であることを踏まえて、絶対視せず活用していけばいいと思える名言。

私は不幸にも知っている。時には嘘によるほかは語られぬ真実もあることを。

芥川作品で教科書にも載るよう作品に「蜘蛛の糸」がある。地獄に堕ちた男が頭上から垂れ落ちる天国にいける糸にのぼる。他の者も同じように登ろうとするが男は彼らを蹴落とす。同時に糸は切れ男は地獄にまた戻る。もちろんこれはフィクションであるけれども、読後に抱く感情として例えば、自己中心的な考えから他者のことを考えない行動はいずれ自分の首を絞める結果になる、といった感想や教訓を覚えたとしたら、現実にその教訓を活かすことでより良く生きることができるかもしれない。嘘が真実を教えてくれるのとはあると思える名言。

人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。重大に扱わねば危険である。

人生をマッチに喩えた比喩。前半と後半の対比がオチにもなっていて秀逸な名言。重大に扱うほどの価値はないと捉えながらも、その安易さが足元をすくうことになるかもしれない。芥川の言葉だと人生は危なっかしいものとして受け止めることもできるが、マッチが灯りを生むこともできるし、小さな暖をとることもできる。なにかと着火すれば大きな火になることだってできる。人生は軽々しく扱うこともできるけれど、いまよりも広く深い風景を見せてくれる可能性も同時にあるとすら思わせてくれる名言。

あなた方のお母さんを慈しみ愛しなさい。でもその母への愛ゆえに、自分の意志を曲げてはいけない。そうすることが後に、あなた方のお母さんを幸せにすることなのだから。

子供は親の背中を見るという言葉があるように、親の言動よりも行動に対して信頼や尊敬の念を加減させる。子供が親に期待していたことは、大人の世界が楽しいということを親自身から発信することだった記憶がある人は少ないはずだ。反対に、親が子供に期待することも、この世界を思う存分味わってほしいという一点に行き着く人が多いのではないか。どちらにしても、子供ためや親のために生きるのではなく、自分自身のために生きる姿こそが大切な人をも幸せにする。そんなことを伝えたいのかと思える芥川の愛ある名言。

完全に自己を告白することは、何びとにも出来ることではない。同時にまた、自己を告白せずには如何なる表現も出来るものではない。

自己表現について。100%の自己表現はできないけれど、0%の自己表現というものもない。何かをアウトプットすることは、どんな模倣であれ個性が微細であれ表出するもの。表現には2つの苦しみがあるのかもしれない。ひとつは、自己の深くまで潜り得体の知れない何かを外に出そうとするも出してみると違ったものになってしまいまた潜る苦しみ。もうひとつは、主観をできるだけ排除し客観的な表現を試みたのに、自分の性格の一端が滲み出ていることに気付いてしまう自己嫌悪ような苦しみ。いずれにしても逃れられない自己という存在に一番折り合いをつけて生きていかなければならない作家の芥川だからこそ出た名言。

人生を幸福にするためには、日常の瑣事を愛さなければならぬ。

瑣事はデティール。細かいところ。日常は気づけば繰り返しのように思えてきてしまうほどの瑣事に囲まれている。それらの瑣事に無頓着に無関心にしていると見るものすべてが単一色に見えてくるように日常は単調に退屈なものになる。幸福はどこからくるのか。これら日常の瑣事を愛すことができるなら、たちまちに目の前のすべてが彩りはじめる。小さな幸福を集めることは一日を豊かにし、しいては一週間、一ヶ月、一年と積み重なり、大きな単位として、人生についての幸福と捉えることができやすくなる。芥川龍之介の人生を知ると、この言葉通りの人生とも思えないけれど、憧憬のような気持ちで悟ったのかもしれないと思い馳せてしまう名言。

我々はしたいことの出来るものではない。ただ、出来ることをするものである。

仕事をしている社会人にとっては、働くこととはなんなのか考えてしまう命題かもしれない。いま取り組んでいる仕事がしたいことではないほど、この命題について考えてしまう時間も長くなるかもしれない。ひとは、仕事を選ぶうえで、「したいこと」と「できること」が重なるようなことをすることが望ましいとされている。しかし、その重なりで仕事ができている人も多くはないだろう。仕事の本質は他者ができないことを提供することにあるとしたら、他者が評価することは、「できること」に限られる。できることをするものと、芥川龍之介のような文学への情熱や言葉への才覚があった人が語ると地に足をつかずにはいられないと同時に淡々とできることをしようと思えてくる名言。

創作は常に冒険である。所詮は人力を尽した後、天命にまかせるより仕方はない。

創作についてはよくわからないので、なんとも言えないが、ある程度自由にアウトプットすることということを創作と捉えるなら、自分でも作っているものに対して、なぜこうなったのかよくわからないような状態が創作にはある。先述の言葉「完全に自己を告白することは、何びとにも出来ることではない。同時にまた、自己を告白せずには如何なる表現も出来るものではない。」にあるように、絶えず自己と対話しながら、最後には他者のように別人格の「存在」が創作物に立ち上がり含まれてさえいる。芥川龍之介のような文豪でさえ、最後には「天命」に委ねるのだから、創作は人智の理解を越えた作業なのかもしれない。あまり肩肘はらず、ただただがむしゃらに作ることが人間にできることなのかなと思い至らせてくれる名言。

芥川龍之介の人生と仕事の名言が溢れ出ている書籍



芥川龍之介の人生と仕事の名言では学び足りない方へ

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