【おすすめ映画】孤狼の血 平成の終わりに昭和のヤクザ映画がエンタメに気づかせてくれた【ネタバレ感想】

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あらすじ

“血湧き肉躍る、男たち渇望の映画“が誕生した。
昭和63年。暴力団対策法成立直前の広島の架空都市・呉原を舞台に、刑事、やくざ、そして女が、それぞれの正義と矜持を胸に、生き残りを賭けて戦う生き様を描いた映画『孤狼の血』。決して地上波では許されない暴力描写とエロス、耳にこびりつく怒号と銃声。観る者は生々しいまでの欲望にあぶられ、心は必ず火傷する。『警察小説×仁義なき戦い』と評される同名原作を映画化した本作は、昨今コンプライアンスを過度に重視する日本の映像業界と現代社会に対する新たなる挑戦であり、数々の【衝撃作】を世に送り出してきた東映が放つ【超衝撃作】である。by officialsite

平成の終わりのいまだからこそ、この映画には特別な価値がある

昭和の最後を舞台とした映画が平成の終わりに撮影公開された背景を少し考えると、この映画はより楽しめると思います。

事前の情報では、昭和のヤクザ映画や暴力活劇の復活など最近の映画にはない色濃さが新鮮に映ったと耳にした記憶がありました。

平成の時代とはなんだったのか。最中にいる現在には分かりかねる時代性がいま昭和の躍動を覗くことによって、輪郭が感じられるのかもしれません。

個人的にはその声があったせいか、

「平成がカウントダウンされているこの時期に昭和の時代を見てみよう」

と思い立ち観賞しました。

しかし、はじめに鑑賞中や観賞後の感覚を述べると、
先述の輪郭を感じたいと書きましたが、そんな堅苦しいものではなく、至って単純な動機だったのかもしれないことを打ち明けます。

多くの方もこんな感覚があるのかなとは思いますが、平成のルーツでもある昭和の息吹を感じることで、よく覚えるあの「懐かしさ」に会いに行きたかったのだなという気持ちです。

その時代を生きたこともないのに勝手に懐かしさが胸をくすぐってくる感覚。
これがただただ感じたかった。

昭和と平成で切り分けるのは野暮かもしれませんが、これぞ昭和、懐かしいなどと思ってしまう要素がこの映画にはたくさん詰まっていました。

列挙すると、暴力、面子、性、金など、人間の根源的な欲望や気高い誇りなどが血みどろに塗りたくられている。

そんな臭い立つ濃度の高い色でスクリーンごと塗りたくられている。そんな印象でした。

暴力が過ぎる、血が過ぎる、薄目になるようなシーンもありますが、薄目になればなるほどドキドキしている自分がいたことがこの映画に引き込まれていた証拠です。

少しネタバレしますが、冒頭のシーン、ヤクザがヤミ金業者をしめるシーンがあるのですが、養豚場の豚の檻のなか、ボコボコにしばき、豚の糞を喰らわせ、枝切り鋏で小指をぶち切る圧倒的な暴力で一気に引き込まれました。

これだけやりたい放題やって、脈拍をあげにあげてくれ、どう終わるのかと思った終盤には敵対的な人物や組織への勝利や、正義と悪の反転、その他伏線も回収され、映画らしく終わってくれたことで、これは映画であり、これこそがエンターテイメントであることを気づかせてくれました。

エンターテイメントであることを気づかせてくれることはつまり、名残惜しくもこの世界から離れなければいけない合図でもあります。

それは寂しくも映画の方から手を振って幕を閉じてくれることで、また現実の世界へ戻してくれる映画の優しさです。

物語の世界へ引き込み、現実の世界へ戻してくれる。

物語以前の自分と少し違うような心持ちで、物語が少し背中を押してくれる確かな心強さを感じながら。

この感覚が強くあればあるほどエンターテイメントとしての魅力も強いのかなと個人的には思いますが、この映画にもそれを強く感じました。

昭和の「懐かしさ」の世界へ引き込み、根源的な欲望を沸き立たせ、最後には物語でありフィクションであることを鮮やかな種明かしで締めくくる。

平成が終わるカウントダウンのこの時期に昭和を見せてくれたタイミングは、映画やエンターテイメントの持つ力、原点を再認識させてくれる上で必要な舞台装置だったのかなと勝手に合点してしまいました。

ただ、エンターテイメントとして成し得るには、現在の映画技術の進歩も欠かせない要素であり、昭和を懐かしむだけの懐古主義でなく、現在の技術でもって、終始観賞に耐えうる要素があってこその映画でした。

具体的には、人が仏様になった姿がリアルに映されるシーンは昭和では表現できない技術があってこそです。「役所広司ズブズブじゃん・・・」「石橋蓮司の最後の顔マジか・・・」誰かに話すとしたら映画の筋や出来不出来なんかよりもこんな言葉から切り出したくなるほど目を見張るものがありました。

役所広司と松坂桃李。二人が演じる正悪の表現の対比が印象的。

ヤクザ映画は、役者それぞれが沸点のあたりにいる人間を表現しているので、
人間臭さがより際立つのかなと思いますが、主役の大上を演じる役所広司氏はひときわ際立っていました。

ヤクザも警察も行き着くところは正義でも悪でもない。

その矛盾に満ちた存在を象徴し、間を行き来するような役柄の大上は暴力、性、金にまみれた人物として、松坂桃李演じる新人キャリアの日岡の純白さと時に反発し合います。

そりゃ誰でも反発するよというほどの大上の行為は、観客に正悪の混濁を提示し続けます。この人の存在は正義なのか悪なのか。逡巡が脈拍と掛合わさりいよいよ理解することを諦めるほどの存在を見事に表現する役所広司氏には、ふと、この人と同時代にいられて良かったといった素朴な感動が絶えませんでした。

そんな大上がこれまでしてきた事実の全てが、ヤクザと警察の存在の外にいる「カタギ」のために向かっていたことが、最後に明かされます。

これまでの大上の行為に対しての日岡の反発は消え、日岡自身が大上の弔いを持って、ヤクザも警察も正義も悪も越えていく、日岡の成長や強さが描かれる流れは、ヤクザ映画と警察小説、さらに青年の成長譚の要素も折り重なります。

ネタバレになってきましたが、続けますと、純白だった日岡が覚醒したかのようなシーンがあります。

大上がリンチされた現場に赴いた日岡。その犯行を犯した青年を殴り続けます。

純白さを表現した日岡の白いワイシャツが返り血に染まっていきながらも殴り続けるシーンの松坂桃李氏の目が、これまで映されてきたヤクザ達の暴力的な怖さとは違った別の怖さを感じました。

それは沸点を越えてしまった、いわゆるイッてしまった怖さです。

炎の熱は赤よりも青にあるように、冷淡で狂気的な松坂桃李氏の目が、映画のなかで異端な怖さを見せてくれました。

物語のなかでは、大上が昭和を生きた最後の存在であり、日岡が終わる昭和から平成の時代を生き抜こうとする存在として一見対立された構造が描かれていますが、わずかな時間ではあるけれども色濃く生きた二人の時間の終わりを境に、対立から次世代に引き継がれていく継承への着地で幕を閉じます。

いち観客ながら鑑賞後には、大上ならびに役所広司氏の存在感には「平成にとんでもないものを残してくれたな」というような日岡ならびに松坂桃李氏の気持ちを察してしまうほどのインパクトが置き土産に残ります。

しかし、松坂桃李氏のあの狂気な目を目撃した、いち観客にはそれと同時にこれからの時代、平成が終わり新しい時代の役者として大いに期待させてくれる存在にも映りました。

この作品の次はこれがおすすめ

平成の時代に発表されたヤクザ映画で言えば、やはりアウトレイジです。

見比べて楽しむことをおすすめします。

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