きょう、 生まれたひとの言葉

映画 「あん」 ひとはただ、この世界を見るために聞くために生まれてきたとしたら

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映画 「あん」を観賞

本題ではないが、

まず、なぜ観たいと思ったのか?

映画や本の世界に入る前に、少し考えてみることはないだろうか?

自分の興味や関心の理由を探ることは、自分の思考というか志向に気付ける。それは面白いことだと思う。

例えば、本屋に立ち寄って、本棚を前に気になる本を探す。その本に手が伸びる理由を考えると、いまの自分の心境や欲しがっている感覚のようなものに気付ける。

本よりも自分自身が読める。

本屋にはそんな体験がある。映画館にもCDショップにも同じ体験があるのではないか?それが面白いと思う。
ということで、本題の映画「あん」へもどろう。

はじめにまず予告編を観たときに感じたことを思い出すと、

テーマである、どら焼きの「あん」を作っているシーン

「らい」患者である主人公の徳江さんが、桜かなにかの木々にうっとりしながら見上げているシーン

主題歌である秦基博の歌声に、魅かれた。

丹念に何かを作ること

自分の知らない社会的弱者がここに描かれていること

けれど、社会的弱者が必ずしも心まで貧しいわけではないこと。

それらが観たかったのだと思う。

『殯(もがり)の森』などの河瀬直美が樹木希林を主演に迎え、元ハンセン病患者の老女­が尊厳を失わず生きようとする姿を丁寧に紡ぐ人間ドラマ。樹木が演じるおいしい粒あん­を作る謎多き女性と、どら焼き店の店主や店を訪れる女子中学生の人間模様が描かれる。­原作は、詩人や作家、ミュージシャンとして活動するドリアン助川。映像作品で常に観客­を魅了する樹木の円熟した演技に期待が高まる。
(C) 2015 映画『あん』製作委員会 / COMME DES CINEMAS / TWENTY TWENTY VISION / ZDF-ARTE
作品情報:http://www.cinematoday.jp/movie/T0019740
公式サイト:http://an-movie.com/
配給:エレファントハウス

予告やあらすじを踏まえ、これは観ておくべきだと思ったのだけれど、

実際に映画館で見るまで、しばらく時間が経ってしまった。

大き目の映画館での上映が終わるなか、やっぱり映画館で上映しているうちに観たいと思ったのは、

映画の原作、小説「あん」の著者であるドリアン助川氏のインタビューを拝見したからだ。

「映画「あん」で問いかけた「生きる意味」とは 原作・ドリアン助川さんに聞く」

バンド解散後、ニューヨークに渡って別のバンドをやってたけど、2002年9月に日本に帰って来た。仕事はない。本を年4冊出しても、初版で終わっちゃうと年収200万円にもならないんだよね。子供の学費を払えるかどうか、ぎりぎりの生活でした。多摩川の土手にあるアパートで家族3人暮らしていて、あるとき気づいた。回りは高級住宅街だけど、俺には何もない。もう「所有する人生」なんて今後ないだろうという自由さ。「あっ、この多摩川は俺のものだ」。なんだ、世界ってもともと与えられてるじゃん。

地球外生命は見つかっていない、俺たちは宇宙でかなり孤立した存在らしい。ではなぜ生命が存在するのか。宇宙は認識する主体がいなければ消滅してしまうからという「人間理論」です。多摩川の土手を自転車で行ったり来たりしているとき、実感としてそれがわかった。

助川氏本人の体験から得た体感には、この著書の主人公である徳江さんの言葉に通じるものがある

「この世界を見るため、聞くために生まれてきた」

それは、徳江さんをアルバイトとして受け入れた店主の千太郎を救う言葉であり、生き方、在り方なのだろう。

弱者というのは、徳江さんのように「罹患者」として隔離されることはもちろんだが、

千太郎のように、罪を犯し、他者に大きな借りがあることで、自らの人生を他人に委ねなければならない生き方も、弱者といってもいいのではないか?

弱者とはつまり、他人や社会によって、自らの自由な生き方を必要以上に阻害されること。

この世界との断絶すら感じるその閉塞感に加え、徳江さんに対する社会的差別を目の当たりにした当事者として、弱者であるアルバイトスタッフを守ることができない店主として、千太郎は苦しむ。

申し訳なさを抱えながら、あるきっかけで徳江さんの住む場所を千太郎は訪れ、「らい」病患者が隔離されていたその場所に、苦しみを抱えながら生きてきた人々と時間があること知る。

その人生に何を見ていたのか?聞いていたのか?そして何を考え、何を望んでいたのか?

その苦しみを自分の苦しみに重ねながらも、徳江さんのいう

「私たちは、この世界を見るために、聞くために生まれてきた」の言葉に救われる。

この世界を見るために、聞くために。

それはただ、この瞬間の世界を慈しむように生きる。ちょうど桜の木々を見上げる徳江さんの姿そのものだ。

それだけでいい、何かになろうとしなくても、何にもなれなくても、ここにただ在るだけでいいのだ。

そう思えることは人間を、弱者や社会、世間という言葉や価値観を越えるひとつの「強さ」を見出してくれる。

強くあろうとしなくてもいい。ただただ感じて生きる。

それは千太郎だけでなく、この世界に生きる人々を救いうる言葉だと思う。

参考図書

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